2007年09月26日
十五夜のお月さま
すっかり暮れた秋の夜の
久米島の十五夜は、静かで美しい、ぼんぼりの月夜です。
家路へ向かう道すがら、明るい月に照らされた道路には、
満ちた海へと足早な、オカガニさんにも出会えます。
今夜は、月を眺めながら、故郷の沖縄本島の母が、こしらえてくれた
おいしい『フチャギ』のお餅を、家族みんなでいただきました。
↑できるだけ多くの人に読んでいただこうとエントリーしています。
申し訳ないのですが、もし可能であれば2つともクリックして応援をお願いします!
久米島の十五夜は、静かで美しい、ぼんぼりの月夜です。
家路へ向かう道すがら、明るい月に照らされた道路には、
満ちた海へと足早な、オカガニさんにも出会えます。
今夜は、月を眺めながら、故郷の沖縄本島の母が、こしらえてくれた
おいしい『フチャギ』のお餅を、家族みんなでいただきました。
↑できるだけ多くの人に読んでいただこうとエントリーしています。
申し訳ないのですが、もし可能であれば2つともクリックして応援をお願いします!
今朝、久米島に帰る私達親子のために、
母は、前の晩から夜なべして『フチャギ』を作ってくれました。
仏壇に供えるために、お皿にもって、魔よけの”サン”を乗せた『フチャギ』を前に
父がその”いわれ”を教えてくれました。
「白い餅は、親の意味、その周りに付ける小豆は、こどもを意味しているんだよ。
親の傍を、こども達が離れないように、そして、沢山の子供たちに恵まれますようにと
いう願いを込めて、十五夜の豊穣のお月様へお供えするんだよ。」
そう語る父の声が、いつもより、ほんの少しだけですが、
高ぶるように聞こえたのは、前の晩に、私や3人の子供たちで
畑仕事で疲れた父の肩や腰を揉みほぐしながら語った時間を
お供えする『フチャギ』に重ねて、
私と同じように愛しく感じてくれている様な気がしたのです。
久米島で、暮らす時間が長くなった分、父と母に会える時間は短くなりました。
私達の毎日は、大きな天秤の秤を、右や左へ選択しながら前へ前へと
進んでいるようなものかもしれません。
ずっと一緒に暮らすことは叶わないかもしれませんが、
こうして、いつでも想うことの出来る父という存在、母という存在の大切さは、
重ねた時間の長さではなく、通う心の深さに比例していると想うのです。
昔から続いている、『お月見』という行事の中に培われた
満ちた月の美しさを、愛でる人の心の美しさとして、
感じることの出来る平和な日々を
私達は、これからも、心から大切にしてゆきたいものです。
↑できるだけ多くの人に読んでいただこうとエントリーしています。
申し訳ないのですが、もし可能であれば2つともクリックして応援をお願いします!
母は、前の晩から夜なべして『フチャギ』を作ってくれました。
仏壇に供えるために、お皿にもって、魔よけの”サン”を乗せた『フチャギ』を前に
父がその”いわれ”を教えてくれました。
「白い餅は、親の意味、その周りに付ける小豆は、こどもを意味しているんだよ。
親の傍を、こども達が離れないように、そして、沢山の子供たちに恵まれますようにと
いう願いを込めて、十五夜の豊穣のお月様へお供えするんだよ。」
そう語る父の声が、いつもより、ほんの少しだけですが、
高ぶるように聞こえたのは、前の晩に、私や3人の子供たちで
畑仕事で疲れた父の肩や腰を揉みほぐしながら語った時間を
お供えする『フチャギ』に重ねて、
私と同じように愛しく感じてくれている様な気がしたのです。
久米島で、暮らす時間が長くなった分、父と母に会える時間は短くなりました。
私達の毎日は、大きな天秤の秤を、右や左へ選択しながら前へ前へと
進んでいるようなものかもしれません。
ずっと一緒に暮らすことは叶わないかもしれませんが、
こうして、いつでも想うことの出来る父という存在、母という存在の大切さは、
重ねた時間の長さではなく、通う心の深さに比例していると想うのです。
昔から続いている、『お月見』という行事の中に培われた
満ちた月の美しさを、愛でる人の心の美しさとして、
感じることの出来る平和な日々を
私達は、これからも、心から大切にしてゆきたいものです。
↑できるだけ多くの人に読んでいただこうとエントリーしています。
申し訳ないのですが、もし可能であれば2つともクリックして応援をお願いします!
Posted by satou-n at 00:08│Comments(0)
│気づいてほしいこと
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。