2012年09月03日
昆虫採集
「あれは、ナガサキアゲハ、こっちは、アオスジアゲハだよぉ。」と、

飛んでいる蝶々を、目視で見分けることが、何時の間に出来ている自分に
ちょっぴり感動しながら、子どもたちと一緒に、虫を追いかけているときの気持ちは、
猛々しい激しさよりも、幼い頃にドキドキしながら遊んだ鬼ごっこやかくれんぼ、

学生時代に没頭したスポーツで、友達と競い合った、
透き通るように清々しい高揚感で溢れていました。

「かんちょう~、これはぁ~。」
モンキアゲハをゲットした子どもが、館長のもとに駆けて行きます。

「これは、きれいな姿なので、記録標本として残そうね。」と、ホタル館の館長が、
慣れた手つきで、三角紙に蝶々を挟み、タッパーに入れている動作には、
私が、小さなとげの痛みの様に感じる、生きものを殺しているという、罪悪感を超えた、
何かしらの大きな役割を担う尊重すべき姿を感じます。

オオシオカラトンボ
昔は、誰でも気兼ね無く、虫を取って、翅をとったり、足をもいだりして遊んでいました。
それが咎められなかったのは、今とは違って、信じられないほど生きものが沢山いたからです。

オオシマヤハズカミキリ
それでも、生きものを殺すことがエスカレートすれば、残酷な印象を逃れられません。
そんな、自分自身の気持ちに、きちんと向き合い折り合いが付けられるようになったのは、
「ただ殺すと殺して食べるは違う!」と同じように「最低限必要な標本として残すことも大切!」と
明確な答えを持つ、夫であるホタル館の館長に巡り合えたからだと想います。

オキナワカラスアゲハ
地球は、昆虫たちで溢れ、支えられている星です。
それなのに、私たちは、その生きものたちのつながりを無視するような関わり方を、
長い間、選択してきたように想うのです。

昆虫=害虫! というイメージは、私たちの生活に寄生している蚊やハエやゴキブリ
シロアリなど、都会よりも田舎の暮らしの中で、出会いが多く、
またその被害にも深刻なストレスが付きまといます。
幼いころの好奇心は、動くもの総てにアンテナが向けられます。
その多くが、小さな子でも捕まえることができた身近な昆虫だったと想うのです。

でも、家や家族の健康を守る立場のおとなが、それを、識別する事もせず、
単純に生きもの総てを「ハゴォ」(汚い)と決めつけたなら、
その印象は大切ではないものとして、残念な受け継がれ方をしてしまいます。
そうした考え方の一部が、農薬や除草剤の散布に疑問を持たない農業の在り方を後押し、
現在の地球環境の崩壊に、ある意味、拍車をかけているように感じます。

ツマムラサキマダラ めす
また、「自然が好きです。生きもの大好きです。」と言いながら
自分の欲望を満足させるためや、そうした人々に販売する事を目的にして、
トラップを仕掛けて、好きと嫌いで生きものを価値付し、
捕りまくるような、あさましい人間は最悪です。
もちろん、人と自然の生きものたちとの関わり方は、時代と共に変化し、
その解釈も様々なのかもしれません。
ホタル館の館長から教えてもらった自然に向き合う事で、一番大切な事は、
”今を生きるために、過去から学ぶこと”、そして、”未来のために今を記録する事”です。
”そして、自然や里山を守るために、立場が違っても、みんなで協力する事です。”
この久米島の自然環境の記録を残す作業を、ホタル館の館長の傍らで手伝いながら、
ホタレンジャーの子どもたちは、この島の自然を守る方法を、素直に受け継いでゆきます。

私たち人間は、生存すること自体が、
自然環境に負荷をかける生きものだという事実に向き合う時、真の協力ができ、
そして、できる限り、自然と共存する方法を模索し、素直に行動する生き方にこそ、
生きる意味と価値と、何よりも多くの命にとっての幸せがあると、私は信じています。




↑できるだけ多くの人に読んでいただこうとエントリーしています。
クリックの応援、ありがとうございます!

飛んでいる蝶々を、目視で見分けることが、何時の間に出来ている自分に
ちょっぴり感動しながら、子どもたちと一緒に、虫を追いかけているときの気持ちは、
猛々しい激しさよりも、幼い頃にドキドキしながら遊んだ鬼ごっこやかくれんぼ、

学生時代に没頭したスポーツで、友達と競い合った、
透き通るように清々しい高揚感で溢れていました。

「かんちょう~、これはぁ~。」
モンキアゲハをゲットした子どもが、館長のもとに駆けて行きます。

「これは、きれいな姿なので、記録標本として残そうね。」と、ホタル館の館長が、
慣れた手つきで、三角紙に蝶々を挟み、タッパーに入れている動作には、
私が、小さなとげの痛みの様に感じる、生きものを殺しているという、罪悪感を超えた、
何かしらの大きな役割を担う尊重すべき姿を感じます。

オオシオカラトンボ
昔は、誰でも気兼ね無く、虫を取って、翅をとったり、足をもいだりして遊んでいました。
それが咎められなかったのは、今とは違って、信じられないほど生きものが沢山いたからです。

オオシマヤハズカミキリ
それでも、生きものを殺すことがエスカレートすれば、残酷な印象を逃れられません。
そんな、自分自身の気持ちに、きちんと向き合い折り合いが付けられるようになったのは、
「ただ殺すと殺して食べるは違う!」と同じように「最低限必要な標本として残すことも大切!」と
明確な答えを持つ、夫であるホタル館の館長に巡り合えたからだと想います。

オキナワカラスアゲハ
地球は、昆虫たちで溢れ、支えられている星です。
それなのに、私たちは、その生きものたちのつながりを無視するような関わり方を、
長い間、選択してきたように想うのです。

昆虫=害虫! というイメージは、私たちの生活に寄生している蚊やハエやゴキブリ
シロアリなど、都会よりも田舎の暮らしの中で、出会いが多く、
またその被害にも深刻なストレスが付きまといます。
幼いころの好奇心は、動くもの総てにアンテナが向けられます。
その多くが、小さな子でも捕まえることができた身近な昆虫だったと想うのです。

でも、家や家族の健康を守る立場のおとなが、それを、識別する事もせず、
単純に生きもの総てを「ハゴォ」(汚い)と決めつけたなら、
その印象は大切ではないものとして、残念な受け継がれ方をしてしまいます。
そうした考え方の一部が、農薬や除草剤の散布に疑問を持たない農業の在り方を後押し、
現在の地球環境の崩壊に、ある意味、拍車をかけているように感じます。

ツマムラサキマダラ めす
また、「自然が好きです。生きもの大好きです。」と言いながら
自分の欲望を満足させるためや、そうした人々に販売する事を目的にして、
トラップを仕掛けて、好きと嫌いで生きものを価値付し、
捕りまくるような、あさましい人間は最悪です。
もちろん、人と自然の生きものたちとの関わり方は、時代と共に変化し、
その解釈も様々なのかもしれません。
ホタル館の館長から教えてもらった自然に向き合う事で、一番大切な事は、
”今を生きるために、過去から学ぶこと”、そして、”未来のために今を記録する事”です。
”そして、自然や里山を守るために、立場が違っても、みんなで協力する事です。”
この久米島の自然環境の記録を残す作業を、ホタル館の館長の傍らで手伝いながら、
ホタレンジャーの子どもたちは、この島の自然を守る方法を、素直に受け継いでゆきます。

私たち人間は、生存すること自体が、
自然環境に負荷をかける生きものだという事実に向き合う時、真の協力ができ、
そして、できる限り、自然と共存する方法を模索し、素直に行動する生き方にこそ、
生きる意味と価値と、何よりも多くの命にとっての幸せがあると、私は信じています。




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Posted by satou-n at 14:43│Comments(0)
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