2007年06月26日
戦後を引き継ぐ世代
6月23日は、「慰霊の日」
小学校に入学した頃から毎年、
この日ばかりは、父や母の語る戦時中の話を、
背筋に一本、透き通った魂の芯を打ち込まれたように
厳粛な面持ちで、聞き入ったものでした。



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小学校に入学した頃から毎年、
この日ばかりは、父や母の語る戦時中の話を、
背筋に一本、透き通った魂の芯を打ち込まれたように
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あれから、もう既に、40年の歳月が過ぎ、
戦争体験者である父や母も、齢80になってしまいました。
今、観てきたかのように父や母から語られる戦時中の親戚の当時やその後、
もう既に、他界してしまった父や母の周りに居た人々の面影を語るたびに
「あの、戦争が無かったら・・・。」と、年老いた母は、呟きます。
その呟きは、たくさんの幸せを踏みにじられた記憶を持つ、
戦中の沖縄の人々に降り注がれた共通の祈りです。

『人が人を殺すことが、恐ろしく悲しいから、戦争は、嫌だ。』と、
幼い頃に漠然としていた戦争への想いは、
私自身が、母と同じように我が子を腕に抱くまでになった今では、
多くの沖縄戦の生き残りの方々の持つ、戦争という行為に反対する以上の、
戦争の存在すら、認めることはないという、父の話す
”否戦”という考え方の理念の深さを想像することが出来るようになりました。
「怖くて、悲しい」という感情では、とうてい表現することの出来ない
戦争体験者の方々のかいくぐって来た修羅場の凄まじさと、
人間としての尊厳を踏みにじられた憤りが、
我が子や多くの人々や自然への愛情が勝れば勝るほど
許しがたい存在として”戦争”の2文字を、浮かび上がらせます。
戦争体験者である、父と母は、戦争という愚かな行為についての
純粋な怒りの炎を、今でも絶やすことなく、丁寧に生を重ねています。

「強要」という言葉が合っても無くても、「手榴弾」という武器を渡されたときから、
それは「死」を意味する暗黙の強制でしかなかったと、歯軋りしながら父が漏らす言葉は、
あの戦時中、何度も、何度も押し殺し続けてきた真実の怒りの言葉です。
戦争は幾つもの恐怖を持っていますが、その中でも、もっとも恐ろしいのは
「想い」を真実のままに語ることの出来ない、
人間としての尊厳を踏みにじられる行為を
受け入れざるを得ない”狂った時間”を強いられることではないでしょうか。
「あんな悲惨さの中、正常でいられる訳が無い。」という解釈で、
全ての戦争責任を不明慮にしたまま”忘れる”ことだけを、受け入れることは、
二度と、”戦争”を起こさないということの本質を理解することには、決してなりません。
私の父や母のように、折につけ戦争の惨たらしさを語ることが出来る世代は、
もう既に、大抵の方々が、他界されてしまいました。
それでも、戦後、語ることのできなかった体験談を、今、多くの方々が、語り始めました。
その奥にある”非戦”の志を、正しい判断で、受け継ぎ、語ることが、
全く戦争を知らない若く新しい世代と、戦争体験者との想いを繋げるパイプ役として、
戦後を引き継ぐ私達の世代に、大きな役割として激しく求められています。

そして、それは、自分達の未来を阻む、地球環境への危惧に対して意識や理解を
容易に向けることができる新たな世代の子どもたちが、
戦争によって多くの犠牲を強いられ、
艦砲のクイヌクサァ(艦砲射撃の食い残し)と言われ生き残った
ウチナーンチュの否戦争感の正しさをしっかりと、受け止めることで、
受け継がれてきた自らの生命と、
地球上に存在する生きとし生きるもの全てに対する、
命への感謝を深め、本当に大切にすることができるのだと信じています。


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「あの、戦争が無かったら・・・。」と、年老いた母は、呟きます。
その呟きは、たくさんの幸せを踏みにじられた記憶を持つ、
戦中の沖縄の人々に降り注がれた共通の祈りです。

『人が人を殺すことが、恐ろしく悲しいから、戦争は、嫌だ。』と、
幼い頃に漠然としていた戦争への想いは、
私自身が、母と同じように我が子を腕に抱くまでになった今では、
多くの沖縄戦の生き残りの方々の持つ、戦争という行為に反対する以上の、
戦争の存在すら、認めることはないという、父の話す
”否戦”という考え方の理念の深さを想像することが出来るようになりました。
「怖くて、悲しい」という感情では、とうてい表現することの出来ない
戦争体験者の方々のかいくぐって来た修羅場の凄まじさと、
人間としての尊厳を踏みにじられた憤りが、
我が子や多くの人々や自然への愛情が勝れば勝るほど
許しがたい存在として”戦争”の2文字を、浮かび上がらせます。
戦争体験者である、父と母は、戦争という愚かな行為についての
純粋な怒りの炎を、今でも絶やすことなく、丁寧に生を重ねています。

「強要」という言葉が合っても無くても、「手榴弾」という武器を渡されたときから、
それは「死」を意味する暗黙の強制でしかなかったと、歯軋りしながら父が漏らす言葉は、
あの戦時中、何度も、何度も押し殺し続けてきた真実の怒りの言葉です。
戦争は幾つもの恐怖を持っていますが、その中でも、もっとも恐ろしいのは
「想い」を真実のままに語ることの出来ない、
人間としての尊厳を踏みにじられる行為を
受け入れざるを得ない”狂った時間”を強いられることではないでしょうか。
「あんな悲惨さの中、正常でいられる訳が無い。」という解釈で、
全ての戦争責任を不明慮にしたまま”忘れる”ことだけを、受け入れることは、
二度と、”戦争”を起こさないということの本質を理解することには、決してなりません。
私の父や母のように、折につけ戦争の惨たらしさを語ることが出来る世代は、
もう既に、大抵の方々が、他界されてしまいました。
それでも、戦後、語ることのできなかった体験談を、今、多くの方々が、語り始めました。
その奥にある”非戦”の志を、正しい判断で、受け継ぎ、語ることが、
全く戦争を知らない若く新しい世代と、戦争体験者との想いを繋げるパイプ役として、
戦後を引き継ぐ私達の世代に、大きな役割として激しく求められています。

そして、それは、自分達の未来を阻む、地球環境への危惧に対して意識や理解を
容易に向けることができる新たな世代の子どもたちが、
戦争によって多くの犠牲を強いられ、
艦砲のクイヌクサァ(艦砲射撃の食い残し)と言われ生き残った
ウチナーンチュの否戦争感の正しさをしっかりと、受け止めることで、
受け継がれてきた自らの生命と、
地球上に存在する生きとし生きるもの全てに対する、
命への感謝を深め、本当に大切にすることができるのだと信じています。

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1945年6月23日。凄惨な地上戦闘が行われていました沖縄で、戦闘が終結した日
今日は沖縄の終戦記念日です【けんちゃんの吠えるウォッチングーどこでもコミュニティ双方向サイト】at 2007年06月28日 14:14
この記事へのコメント
日常生活の中では制約だらけで受けない毎日です。
でもなんとかして、戦争への道を歩もうとする日本を止めなければと思います。その原点に沖縄があります。
「平和」「護憲」「反核」の3つだけでくくれる社会運動体をこしらえようと思いました。政党支持や宗教は関係なしに。
方法手段は走りながら考えていくつもりです。
でもなんとかして、戦争への道を歩もうとする日本を止めなければと思います。その原点に沖縄があります。
「平和」「護憲」「反核」の3つだけでくくれる社会運動体をこしらえようと思いました。政党支持や宗教は関係なしに。
方法手段は走りながら考えていくつもりです。
Posted by けんちゃん at 2007年06月28日 14:20
けんちゃん、コメントをありがとうございます。
自然環境を語るとき、私は、沖縄に生まれたことを誇りに思います。
そして、平和について、願うとき、この身に流れる沖縄の赤い血が、
人間が決して犯してはならない命の強奪に対して、
休むことなく『否』と、脈打つのです。
私の生まれ育った場所は、今の沖縄市、旧コザ市というところです。
子供の頃は、ベトナム戦争が、まだ続いていて、ハーレムと呼ばれる繁華街では、まるで、映画のワンシーンのように最前線へ送られる虐げられていた黒人兵と、白人兵の暴力沙汰が、日常茶飯事の毎日でした。
登下校の電信柱の隅にうずくまる、迷彩服の黒人兵の真っ黒い肌から、赤く噴出している血の色に、怖くなって、泣き出しながら走って家に帰ったことや
夕食の卓袱台を囲んだ私達家族の前に、土足で飛び込んできた逃亡兵を
MPと呼ばれる米軍の警官が、ピストルを空に撃ちながら追いかけてきたこともあります。
夜中にB29爆撃機が、我が家の上を飛んでいく音を聴くたびに
寝てしまったら、いざというときに逃げられないと、一睡も出来ずに朝を迎えたことは、本当に、何度もありました。
小学校の遠足で、出かけた山々でも、半分土に埋まった戦争で亡くなった方の遺骨を、同級生同士で見つけて大騒ぎをしたこともありました。
終戦を迎えた今でも、沖縄の地には、不発弾が眠っていて、今でも山や丘を
開発するときには、磁気探査装置を使って、掘り返す場所を調べています。
(もしかしたら、世界中、同じかもしれませんが、もし、そうだとしたら、本当に
悲劇だと思います。)
沖縄で生まれ育った40代の私には、アメリカという国が、沖縄を占領しながら続けてきたベトナム戦争の生々しい記憶と、父や母から伝え聞いた沖縄の地上戦が、交錯しながら色濃く染み込んでいるのかもしれません。
私も、けんちゃんの「平和」「護憲」「反核」の3つだけでくくれる
社会運動体に大賛成です。
慰霊の碑の周りで戯れる子ども達を、叱りながら
戦後に生まれた私達は、なんと幸せであることかと、
今の平和に、安堵し、心から感謝しています。
自然環境を語るとき、私は、沖縄に生まれたことを誇りに思います。
そして、平和について、願うとき、この身に流れる沖縄の赤い血が、
人間が決して犯してはならない命の強奪に対して、
休むことなく『否』と、脈打つのです。
私の生まれ育った場所は、今の沖縄市、旧コザ市というところです。
子供の頃は、ベトナム戦争が、まだ続いていて、ハーレムと呼ばれる繁華街では、まるで、映画のワンシーンのように最前線へ送られる虐げられていた黒人兵と、白人兵の暴力沙汰が、日常茶飯事の毎日でした。
登下校の電信柱の隅にうずくまる、迷彩服の黒人兵の真っ黒い肌から、赤く噴出している血の色に、怖くなって、泣き出しながら走って家に帰ったことや
夕食の卓袱台を囲んだ私達家族の前に、土足で飛び込んできた逃亡兵を
MPと呼ばれる米軍の警官が、ピストルを空に撃ちながら追いかけてきたこともあります。
夜中にB29爆撃機が、我が家の上を飛んでいく音を聴くたびに
寝てしまったら、いざというときに逃げられないと、一睡も出来ずに朝を迎えたことは、本当に、何度もありました。
小学校の遠足で、出かけた山々でも、半分土に埋まった戦争で亡くなった方の遺骨を、同級生同士で見つけて大騒ぎをしたこともありました。
終戦を迎えた今でも、沖縄の地には、不発弾が眠っていて、今でも山や丘を
開発するときには、磁気探査装置を使って、掘り返す場所を調べています。
(もしかしたら、世界中、同じかもしれませんが、もし、そうだとしたら、本当に
悲劇だと思います。)
沖縄で生まれ育った40代の私には、アメリカという国が、沖縄を占領しながら続けてきたベトナム戦争の生々しい記憶と、父や母から伝え聞いた沖縄の地上戦が、交錯しながら色濃く染み込んでいるのかもしれません。
私も、けんちゃんの「平和」「護憲」「反核」の3つだけでくくれる
社会運動体に大賛成です。
慰霊の碑の周りで戯れる子ども達を、叱りながら
戦後に生まれた私達は、なんと幸せであることかと、
今の平和に、安堵し、心から感謝しています。
Posted by satou-n
at 2007年06月28日 23:20
at 2007年06月28日 23:20※このエントリーではブログ管理者の設定により、ブログ管理者に承認されるまでコメントは反映されません






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